ムウアロハ 手仕事の日々

オリジナルボディワーク。からだとこころを施す手仕事。

小山審判と棚原さんと林審判と1998サヨナラボーク

🐵めちゃ長いです。野球興味ない方はスルーしてください~~🙏💦💦

 

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甲子園でも一緒に観戦した野球仲間のかよさんから驚きのメールがありました。

かよさんが知り合ったのは有名な審判員、小山克仁さん。

甲子園などで活躍し、今は野球を世界に広める活動などいろいろされています。

 

◆小山さんの記事
https://azrena.com/post/70/

 

大好きな【野球】について考えさせられた記事でした。

(咀嚼しながらゆっくり2度読んで保存💾)

 

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私にも憧れている人がいます。

大阪吹田のリトルリーグで監督されてる棚原さん。

80才のおばあちゃんです。

的確な鋭いノックを打ちます。

 

若いころソフトボールをしていた棚原さんは旦那様とリトルリーグを開き、旦那様が亡くなっても一人で指導、野球離れがはなはだしいこの時代でも100人を越える子供たちが学ぶ。

教え子にはオリックスのT岡田などがいます。

野球より礼儀を教えるスーパーおばあちゃん棚原さん!

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2020/06/16/80_split/amp.php%3Fusqp%3Dmq331AQRKAGYAZ2ixumHqYLRzgGwASA%253D

「野球が好き♥️それだけよ♥️」という棚原さんです。

 

野球好きは、何歳になっても野球に惹かれ続けるのでしょう、私も😀

 

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「サッカーは上手い子しかボールに触れないけど、野球は一試合に三度は確実にバッターボックスに立てる。

そして能力に適した守備がある。

背が低くても足が遅くてもヒーローになれる」

 

 

◆【人】のスポーツ

※アウトにするには相手が取りやすいところに投げなければいけない。

 

※箕島高校の元監督、尾藤さんがいつも言っていたこと。

【球技は、ボールが床に落ちたりゴールに入ったりして点が入る。
野球だけが人がホームベースを踏んで点が入る。
人を前に進め本塁に戻すこと、そのために他の人が頑張る
球技だけれど、ボールはただの道具であって、あくまでも主役は゛人´。】

 

 

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高校野球で私が一番心に刻まれた試合があります。

【史上初のサヨナラボーク】。

 

かよさんに話したくて「この試合について少し書こう!」と突然思いました。

興味ない方は長いのでスルーしてください😀

 

 

■ボークとは?

「ピッチャーの反則行為」。

投げようとする動作を中止すること。

(セットポジションで静止をしなくてもボーク)

(ランナーのいない塁に牽制球を投げてもボーク)

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審判によってボークが宣告されると、無条件で全てのランナーが一つ進塁。
バッターのボールカウントに変更はなし。

 

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この試合を、当時主審されてた林さんの記事も交えながら少し紹介します。

 

 

■高校野球史上初のサヨナラボーク


f:id:moomoon6355:20200817081334j:image

https://youtu.be/C6TMfs0L4YA

 

 

1998年の8月16日、第80回夏の甲子園の2回戦。

山口・宇部商  対  愛知・豊田大谷。

 

その日のグラウンドは灼熱、気温は38度に達していました。

 

このあとの試合が「横浜・松阪と鹿児島実業・杉内」の一騎討ち、

お盆休みもあり甲子園球場は5万人を越える観客で埋めつくされていました。

 

この試合が延長戦に突入。「次が見たいねん、はよ終わってくれよ」と多くが思っていたはず。(私も(笑))

これが球史に残る試合になるとは誰も思わず。。。

 

 

夏の甲子園は審判にとっても過酷。

選手は攻撃の時にベンチで休めるが、審判はずっと炎天下の中で立ちっぱなし。

(その試合の途中で三塁審判が熱中症で倒れる)

試合時間は4時間を超えていました。

 

特に主審は常に防具とマスクをつけ汗が目に入る。

主審の林さんは暑さで頭がくらくらするのを感じ、『これはちょっとまずいな』と。

 

 

宇部の2年生ピッチャー藤田君は中学生かと思う体格。

身長167cm、体重58kgの小さく細い体での力投。

彼は大会前に肘を壊してしまい痛み止の注射を打ちながらの投球でした。

(相手の豊田大谷のピッチャーも一人で15回を投げ抜いた)

 

2–2の同点で迎えた延長15回の裏、

守る宇部商はノーアウト満塁という最大のピンチを迎える。

 

炎天下で懸命に頭を働かせていたのは、選手だけでなく

林主審もクラクラしながら懸命に頭を働かせていた。

 

「選手は緊張すると予想外のプレーが出ることも多くて。

 

たいていの場合、それはランナーが三塁にいる場面で起きるんです」。

 

タイムリーやスクイズだけでなく、

死球押し出し、パスボール、挟殺、ホームスチール——などなど。

主審としてあらゆる可能性を頭に入れて目の前の試合に集中していました。

 

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藤田君の投球は211球目に達していた。

 

ボールカウントは1ボール2ストライク。

投球動作に入った藤田君は、ここで再び捕手のサインをのぞき込むように腰をかがめた。

左足はプレートにのったまま。

それは、林さんが唯一想定していなかった反則行為「ボーク」だった。

 

「頭の中で、ボークを『取れ!』という自分と『取るな!』という自分がいた」

 

コンマ数秒遅れて、反射的に手が上がっていた。

試合は、甲子園大会史上初の「サヨナラボーク」で決着した。

 


f:id:moomoon6355:20200817081356j:image(その時の藤田君)

 

 

当時藤田君は「あとで見返してもあれは完全にボークです。あの暑い中でよく見ていたなあ、さすが甲子園の主審だな、と思いました」と語っている。

 

「どんな場面でも、ボークを犯すってことは自分が怠っていた。言い訳はしません。僕の準備不足です。未熟でした。

ただただ先輩たちに申し訳なかった」と。

 

 

 

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「おい、ボークで間違いないよな」

急に不安になり、林主審は隣に整列した後輩の審判員に尋ねた。

 

返ってきた言葉は、「すみません、分かりませんでした」。

 

『ああ、これで自分の審判人生、終わったな』

豊田大谷の校歌は全く耳に入ってこなかったそう。

 

 

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「名前を覚えられない審判が名審判なんだ」

観客が審判員の名前を調べるのは、判定を誤った時だけ。

正確なジャッジを下せる審判員は、その存在は知られない。

 

尊敬する先輩審判員で、後年に野球殿堂入りを果たした郷司裕さんに常々言い聞かせられていたことだった。

 

 

駆け出しの頃は失敗の連続だった。

「林!下手くそ!審判辞めろ!」

心ない言葉に、泣きながら帰ったこともあった。

 

91年に初めて甲子園の大舞台へ。

大会期間中は大阪・肥後橋の8人部屋で他の審判員と寝食をともにした。

試合日は朝5時に起床し、阪神電車に乗り換えて甲子園球場まで通った。

 

帰りの電車の中で反省ばかり。

「完璧に裁けた試合はとうとう一つもなかったです」

 

「サヨナラボーク」の翌日 ボークを宣告する自分の写真が一面に。



試合後の囲み取材では、多くの取材陣ほぼ全員から激しく責め立てられた。

宿舎にも高野連にも数百件の怒号が寄せられた。

 

「あんなに良い試合を審判が終わらせていいのか!!」

「ボークを取らないという選択肢はなかったのか!!」——。

 

 

翌朝、甲子園球場に向かういつもの阪神電車の中で恐怖を覚えた。

乗客が広げるスポーツ紙、さらには一般紙までもが前日のサヨナラボークを一面、しかも写真付きで報じていた。

 

しかし、判定に疑問を呈するような記事は1つもなかったのです。

その理由は、前日の夜のスポーツ番組で、原辰徳さん(現巨人監督)が、「藤田投手の行為は「明らかなボーク」です」と解説したから。

これで批判は一切なくなった。

 

高野連への批判の電話はたちまち審判への励ましに変わり

ある全国紙は〈投手をかわいそうと思う気持ちとは区別すべき〉と言い切った。

林さんの名前が世に知れ渡ることはなかった。

 

 

その後も数々の名勝負を審判員として見届けた

2002年夏、主審を務めた智弁和歌山と— 智弁学園(奈良)の「智弁対決」では、珍しいハプニングも。

「ユニフォームがほとんど同じで混乱、智弁和歌山の三塁ランナーだと思った選手が智弁学園の三塁コーチャーで、一瞬敵と味方の見分けがつかなくなった」

 

試行錯誤で1200試合以上を裁き、2012年に審判業から勇退した。

 

 

「甲子園のマモノの『マ』は、すき間の『間』」と林さんは話す。

戦いを終えた「ルールの番人」は、人知れず甲子園を去っていった。


f:id:moomoon6355:20200817080903j:image 林さん

 

 

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◆当時の宇部商キャッチャー  上本君
(卒業後西武に入団,。新人賞をとる)

新人賞のインタビューの中でやはりあの試合のことを聞かれて

「2塁ランナーがサインを盗んでいることに気がついて、サインの出し方を突然変えたんです。僕が。それでややこしくなっちゃって、藤田が戸惑って見返したんです。

あれは全て僕のせいです、僕が悪いんです」と涙を浮かべたのには驚きました。

彼は彼なりに辛かったのだなあと。

 

「僕は高校野球をやった2年半で、楽しかったことは一度もありません。

練習と上下関係が厳しくて......でも、甲子園だけは本当に楽しかったんです!!!

僕はこのままずーっと続けばいいと思っていました。

藤田も相当疲れていたのでしょうが、もっともっとここで試合を続けたい......と言ってました。

インコースに投げればファウルになって、このままずっと試合が続くだろうとそう考えていました」

「主審がホームベースの前に出てきたときに「ああ、終わったな」と思いました。

「ずっと続いてほしい」と思ってたけど、暑かったのでゲームセットの瞬間には「やっと終わった」とも思いました。

それ以外のことはほとんど覚えていません。」

 

「整列して相手の校歌を聞くときには、なぜか横に藤田がいました。どうしてだろう? 僕がわざわざそこに行ったのか、それもわかりません。本来なら小柄な藤田の隣に僕がいるはずはない。どうしてだったんでしょうね。側にいたかったんでしょうかね(笑)。」

 

「映像を見返してみると、どう見ても完全にボークです。

勇気はいったかもしれませんが、主審のナイスジャッジだったと思います。

おかげで僕たちの試合がこうしてみなさんの記憶に残っているのですから。

ドラマチックな場面にいることができて、幸せですよね。

藤田には「オレのおかげやぞ」と今も言っています(笑)」

 

YouTubeでは上本君がぼーぜんとする藤田君にしきりに声をかけている。

あれは「俺のせいや」「俺が悪いんや」と言ってたそうです。f:id:moomoon6355:20200817080931j:image

 

 

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後日談があり、二人のお父さんになった藤田君と林主審が15年ぶりに私的に再会。

 

藤田さんが「ボークをした僕が悪いのに、試合後、球審の林さんがかなり批判を受けて責められていたので、一度会って、「僕は今でも元気で野球をやってますよ」って伝えたかったんです。

 

それに対して林さんは「感無量」と涙を流した。

 

 

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高校野球というのは世間から注目されているので、一つのプレーが代々後々までも語り継がれることがあります。

名試合は何十年たっても語り継がれます。

 

私はこの試合は本当にいろいろ感動しました。

藤田君が少年のようだったのもあるし(清原みたいだったらまた違ってたと思う(笑))

両チームとも決して注目されていたとは言えず、普通に終わって次の注目の試合へ!と思われていたのが、両校死力を尽くしての延長戦の最後がボーク。

あまりにもあっけない幕切れに、球場が一瞬シンと静まり返ったのも。

 

 

この試合でエネルギーも感情も使い果たし、待ち望んだ次の松阪対杉内はあまり覚えてません(笑)。

 

おしまい。

 

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長々と話しました🙏💦💦

 

全てのスポーツは【筋書きのないドラマ】。

 

今TVでやってる「全国高校駅伝」も、

もうすぐ見れる「箱根駅伝」も、

そして来年ほんまに出来るのか?!と言われてる「オリンピック」も。

 

選手誰もが「感動させよう」などと思ってプレーしていない。

 

見てるこっちが勝手に感動させてもらっているだけ。

 

スポーツには勝ち負けがある。

それも自分自身に重ね合わせるのです。

 

 

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妹は別室で年賀状作り。

ふくとみいは丸まって寝ています。

珈琲ゆっくり飲んでます☕️

平和で静かな日曜日です☘️

 

また甲子園のアルプスで野球が観たいです⚾️


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